母が亡くなった。
87歳、大往生と言ってもよいのではないか。
美国町の出身で家はあるが誰も住んでいない。
父が亡くなってからも1人で暮らしていたが、
近所の方や友人、そして何より近くに妹も住んでおり、穏やかな生活を送っていた。
そんな母が入院したのは2年前。
体調を崩したのがきっかけだ。
年齢的な事もあり、長期の入院を余儀なくされた。
そして今なお続く、コロナウイルスが広がり始めた時期でもある。
入院して数週間で面会ができなくなった。
母が入院している病院だけでなく、どこの病院も同じだ。
病院側の厚意で月に1度だけテレビ電話ができた。
スマホが使えない母に付きっ切りで看護師さんが対応してくれた。
だけど、会えない寂しさは僕ら以上だったと思う。
そして2年ぶりに会えたその日は、母が亡くなった日でもあった。
僕は長男である。
ただ母のお葬式の事なんて全く考えていなかった。
一緒に行っていた妻に相談すると、会員になっているとの返答。
僕が長男だから、何かあった時に困らないように事前に調べてくれていたようだ。
病院から真っすぐ葬儀場に連れて行ってもらった。
美国には帰れないし、僕の家に連れてくと近所の方にも知られてしまう。
僕の家族と弟家族で家族葬を行う予定だ。
美国の叔母もコロナを懸念してお参りには来れないそうだし。
そりゃそうだ、ニュースだけを見ると札幌はとんでもない人数が感染しているんだから。
葬儀場で今後の打合せを行った。
死亡届に記入して、人数などの確認、宗派の確認。
その中で母について尋ねられた。
出身地や趣味、好きな食べ物など、改めて聞かれると、すぐには出てこなかったが、
妻や子供たち、弟家族と一緒に母の話をする時間は何だか楽しかった。
そこで思ってもみない提案をされた。
『お母さまと一緒に故郷に、美国へ行きませんか?
葬儀には参列できない叔母様の自宅にも行けますよ』
今どきはそんな形もあると驚いた。
だけど、聞いたことがないからとお断りした。
そしたら妻が、
『えー、お義母さんきっと美国に帰りたかったよ。聞いた事がなくてもいいじゃん』と。
弟も賛成のようだ。
何だか気にしていたのは僕だけだった。
詳しく話を聞くと【旅葬】というらしい。
そこからの打合せは本当に楽しかった。
母の家を中心に、せっかく行くなら子供たちに美国港見せてあげたいな。
ウニを卸していたふじ鮨にも行こう。
早速、叔母にも連絡した。
事情を説明し、嫌じゃなければ最期顔を見てほしいと。
『姉さんに会えないと思っていたから…』と泣きながら、行くことを了承してくれた。
当日は天気に恵まれ、むしろ暑いくらい。
母をバスに乗せて出発だ。
まずは、母がウニを卸していたふじ鮨へ。
僕たちはいつも食べていた味噌ラーメン。
どうしても母のウニを食べてほしく、スタッフさんにうに丼をごちそうした。
『こんな美味しいウニ食べたの初めて!』
食べてくれる姿を母は見てくれているだろうか。きっと喜んでいる。
食事の後は美国港へ。
いつもここで母を見送っていたな。
実家へ続く、唯一の一本道。
歩いてるだけで色々な事を思い出す。
時間ができたので父のお墓参りにも行った。
『父さん、母さん帰ってきたよ』
他人にとっては何でもない場所でも僕たち家族にとっては1つ1つが懐かしい。
家族共有の想い出、僕だけの想い出、弟だけの想い出、沢山の想い出がある。
そして、最後に叔母の自宅に到着した。
車内へ案内する。
母の頬に触れながら、涙を流している。
その姿を見た瞬間、【旅葬】にして良かったと心から思った。
あの時、妻と弟の一言で決めた【旅葬】
妻と弟に感謝している。