父の趣味はガーデニング。
母含め、僕ら子ども達も驚いたのは定年退職後のことだ。
仕事一筋、僕たちの学校行事に来れないのはあたり前。
良い意味でも悪い意味でも昭和の男だ。
何度も言って申し訳ないが、亭主関白を絵にかいたような父が母と一緒にガーデニング。
本当に驚きだった。
ただ、母がとても嬉しそうだったのを思い出す。
元々は母の趣味であった。
子育てを終えた母が始めたのである。
父は休みの日、縁側できれいに手入れされた庭を見ながら、コーヒーを飲んでいた。
今思えばその時から興味があったのか。まぁ今となってはわからない。
父は完璧主義である。
仕事もそうだったようにガーデニングでもそうだ。
計画を立てて、ここにこの色が入ると見た目がいい。
ここにこの高さの花が入ると高低差がうまれて壮大に見える。
芍薬は大輪だから華やかになる。
そんな話を楽しそうに話してくれる母。
そんな母が病気になったのは、父が定年してから2年後の事だった。
いつも家族の事を第一に考え、自分の事は後回し。
その後回しが病気を進行させてしまったんだろう…
母の希望で最期は自宅で看取った。
父は最期のその日まで献身的に母のお世話をした。
自宅での介護は僕らでさえ大変だったのに、父は何も言わず最期まで母を診てた。
母が亡くなって、父の1人暮らしが始まった。
母と違って、近所に友人がいるわけでもなく、近所付き合いをしてきたわけでもない父。
心配をしていたが、完璧主義の父は掃除に洗濯、料理もこなしていた。
そして1人になっても庭は今までと変わらずきれいに咲き誇っていた。
その庭の花を母の仏壇に供える。
それが父にとっても僕らにとっても当たり前の日常になっていた。
母が亡くなってから数年、父に病気が見つかった。
手術が必要になり入院生活を余儀なくされた。
高齢なこともあり、術後の状態がおもわしくない。
医師からは最悪な事態も…と言われた。
病室に行った僕に父がこんな話をした。
『俺はもう長くない。葬式は母さんの時のように盛大にしなくていい。
家族だけで金をかけるな。』
父らしいといえば父らしい。
だけど、先が長くない父から言われたこの言葉は、本当に辛いものであった。
同時に父の強さを感じた。
小さい頃、父はヒーローであった。
大きくて強くて、風の音が怖かった僕は父がいるだけで安心して眠れた。
父を強いと思ったのは小学校以来であった。
そしてもう1つ、忘れられないこと。
『葬式は家でやってほしい。母さんと過ごしたあの家から焼き場に行きたい』
僕は涙を堪えるのに必死だった。
両親は特別、仲が良いといった感じではなかった。
仲も悪いとは思っていなかったけど、父がこんなにも母の事を思っていたとは…
父のお葬式を考えはじめた。
自宅でのお葬式なんてやったことがなく、相談に行った。
そこで自宅葬の話を中心に聞いていたが【旅葬】という葬儀がある事を知った。
興味があったわけではないが、資料をもらって帰った。
自宅で妻に葬儀の相談をしている時、【旅葬】って何?と聞かれた。
正直、僕もよくわからずパンフレットを読む。
父は生まれも育ちも札幌だし、家族でよく行った思い出の地があるわけでもない。
ましてや約束していた地もない。
自分に関係ないと思っていたが、妻の考えは違ったようだ。
『これにしようよ、お義父さんガーデニングが趣味だったからお花のきれいなところに行こう』
『お義母さんのお骨も持って、最期の家族旅行。思い出を創りに行こうよ』
そんな発想があるなんてびっくりしたけど、なんだかしっくりきた。
すぐに弟に相談した。
最初は驚いていたが、いいんじゃないと言ってくれた。
葬儀も決まって少し安心したけど、僕の願いはただ1つ。
少しでもいいから長く生きてほしい
孫だけじゃなく、ひ孫の顔も見てほしい
もう1度、父とお酒を飲みながら話がしたい
そんな願いは届かず、数日後穏やかに旅立った。
最期まで弱音を吐かず、父らしい姿だった。
父を連れて自宅に帰ってきた。
居間に座って庭を見ると、父と母が作業している風景を思い出す。
明日は最期の家族旅行、父と母が大好きだった花を見にゆにガーデンに行く。
僕は知らなかったが、一度父と母は行ったことがあるようだ。
遺影を探している時に見つけた1枚の写真。
ゆにガーデンの芍薬の前で撮ったものだ。
父が植えた自宅の庭と同じ白い芍薬。
【幸せな結婚】
白い芍薬の花言葉を知っていたのかは今となってはわからない…